88.髪結の亭主(映画のタイトル、また妻の尻に敷かれる夫)
「先生、鞄もちまちた?」
「あぁ持ったよ」
「パチュポートは?」
「あぁ」
「ハンカチは?」
「大丈夫だ」
玄関でこの会話をしているのは真っ黒なコートを羽織った男と、小さな女の子。
「先生、いってやっちゃい。帰りはなるべく早く帰ゆのよ」
口の回らないような女の子の台詞に男は返す。
「あぁ、分かってる。4,5日したら帰るさ」
「アッチョンプリケ!」
意味の分からない言葉を発しながら女の子は両手を頬に当てた。
「先生、そんな長いなんてこと言ってなかったのよさ!」
そうだったか…? と男は言う。
女の子はとても悲しい目をした。
「やっぱり、ピノコも行くのよさ! ゆうちゅうなじょちゅはやっぱ必要れしょ?」
「ピノコ!」
男が声を荒げる。
女の子は目にいっぱい涙を浮かべた。
「だって……先生1人らなんて…何にもれきないのよさ」
男は黙り込んだ。
「先生、1人れお料理つくれる? お洗濯れきる?」
女の子は潤んだ目で男を見上げる。
男は重そうな鞄を持ったまま立ち尽くしている。
「……分かったよ。向こうについたらすぐオペを始めるようにするさ」
本当? と女の子は男の長い前髪に隠れた瞳を覗き込むように言った。
大人でも怖がるこの顔を女の子は誰よりも愛していた。
「あぁ、本当だ」
「やくちょくよ! やくちょくやぶっらら、もうご飯、作ってやんないかんね!」
「じゃあ、もう行くぞ」
男は冷たくそう言って振り返った。
「ちょっと待って!」
女の子は名残惜しそうにコートの裾を引き止める。
そしておずおずと両手を前に引き出した。
小さな手のひらには赤いリボンが乗っている。
「なんだ?」
「これ、結んでほちいのよさ」
「いつも自分でやってるだろう?」
男の鈍感な態度に女の子は少し膨れた。
「今日らけ。今日らけお願い」
しょうがないと、男はぎこちない手つきで女の子の髪をとり結んで見せた。
男が結んだリボンは大きく右に傾いている。
「これでいいか……?」
女の子は満足そうにうなずいた。
「じゃあ、留守番頼んだぞ」
「もちよんよ。まかちといて! なんらって、ピノコは先生のおくたんなんれすよ!」
女の子は胸を張ってにっこりと微笑んだ。
男は薄い笑みを浮かべる。
「いってらっちゃい。気をちゅけて……」
男が車に乗り込んで去っていった後、女の子はすぐさま鏡の前に寄って行った。
大きく傾いたリボンを見つめながら、頬を赤らめ微笑んだ。
何故かブラックジャック。