あなない

 鮮明に覚えていることがある。  それは小学生の頃のことだ。  内気でクラスでも数人の子にしか口を開けない私にその少年は笑顔を向けている。  手を開いて私に何か手渡しているのだ。  それが何だったのかは覚えていないが、少年の顔と声ははっきりと思い出せる。  名前はミズタニ君、だったか。  高校に進学して一年経った。  新しいクラスに新しい人間が集められる。  いつもこの瞬間が嫌いだった。  ひどく内気だった私は歳を重ねる毎に少しずつ人付き合いを覚えていった。  しかし、何度経験してもクラス替えには慣れない。  クラスには前の学年からの知り合い同士がグループを作っていた。  部活に属さない、もともと友達の少ない私は、不幸なことに知り合いのいないクラスに入れられてしまった。  周りに座っている子に取り繕った笑みを浮かべて一通り紹介をし合う。 「よろしく」  前の席に座っている少女はやわらかく笑った。  話を少しずつしていくと、どうやら彼女も知り合いがいないらしく心細いのだと言った。  私は当たり障りのないようなことで会話の数を増やし、彼女と仲良くなった。  教師は教室の中に入るとまず呼名をした。  男子、女子の順に名前の順になっている。  席もその順番で並んでいて、壁側に座っている男子の出席番号の早い人は顔を確認できなかった。  どうせ仲良くなることもないのだが。  そう思っているうちに、プリントが配られた。  選択科目の確認だそうだ。  アンケート形式のプリントは前の学年の時に配られたそれと同じで。  やる意味はあるのかと思ったが黙って筆記用具を取り出す。  名前を書いて選択した科目をさらっと丸で囲む。その作業はすぐに終わり、後ろから集められた。  前にプリントを回すとき、肘にシャープペンシルが当たるのが分かった。シャーペンは下に落ちた。  まぁいいやとプリントを渡してから拾おうとすると、そのシャーペンは隣人に拾われた。 「ありがとう」  渡されたそれを受け取り隣人の顔を改めて見た。  古い記憶が浮かんできた。  あぁ、そうか。あの時、少年が私に渡してくれたものは鉛筆だったのだ。  落とした鉛筆をそのとき隣に座っていたミズタニくんが拾ってくれたに違いない。 「あの」  隣人が私の顔を見ながら言った。  私は思い切った。 「ミズタニ君ですか?」  大きく頷くと、ミズタニくんは笑った。  多少顔つきは変わっていたけれど穏やかで人の良さそうな雰囲気は同じだった。 「イトウさんだよね?」  私も頷くと二人で懐かしがった。  彼は中学からこの高校の付属中学に通いだしたのだそうで、久々に会う私はすっかり雰囲気が変わったと驚いていた。  その日、私は前の席のエリコとミズタニくん2人とメールアドレスを交換した。 「ナツって、ミズタニ君と知り合いなの?」  始業式の日から一週間くらい経ってからだった。 エリコは微炭酸の缶ジュースをぐぃっと呷った。 「小学校のとき、同じクラスだったんだ」  ふぅん、とエリコは言った。 「ミズタニくんってさ」  エリコは教室の端にいるミズタニくんに目を向けた。 「前は人気あったんだよね」 「そうなの?」  私が聞くとエリコは黙って頷く。 「軽音楽部でボーカルやっててそこそこ人気あったんだよ」  急に声が小さくなったので私はエリコに顔を近づける。 「でもね、一緒にやってたメンバーとごたごたあったみたいでちょっと変わったんだよね。影が出てきたっていうか」  ミズタニ君に目を向けた。  5人くらいのグループの中にいるが、なんとなく浮いているように見えた。その話を聞いたせいかもしれないけれど。 「ごたごたって?」 「そこまではよく知らない。でも、前やってたバンドで抜けたの彼だけみたいだよ」  エリコは空になった缶を両手で潰した。  彼は教室の隅で笑っていた。  私とミズタニ君はちょくちょくメールを交わしていた。  ミズタニ君の話を私が聞いているような感じなんだけれどそれでも私は楽しかった。  ただ、エリコに聞いた事がいつも頭の片隅にはあった。  彼があまり昔のことを喋らないことが妙に気になってもいた。  しかし、過去のことを自分から聞くのは気が引けて、私はいつも気にしているだけだった。  あるとき彼は私に、エリコと同じように私を呼んでいいかと尋ねてきた。  私の下の名、ナツミの最初の2文字だけとってナツ。エリコがつけてくれたニックネームだ。  そんな風に言われた事はびっくりしたけど、私はもちろん、と返した。じゃあ私はなんて呼べばいい? と付け足して。  彼は、男友達が呼ぶようにスバルと呼んで欲しいと答えた。  スバル。なんだか照れくさかったけれど彼との距離は確実に縮んでいく。  少しずつ少しずつ私は彼に歩み寄り、また彼も私の方へと歩いてくるのが分かった。  私は再び思い切ることを決めた。  何にも知らないフリをして、ずっと気になっていることを聞こうと思った。  少しズルい気もするけれどフリをすることは慣れていた。  知らないフリ、分からないフリ。  それは私が世の中を渡る知恵だ。  知らないフリ、分からないフリをしておけば煩わしいことから逃げられることもしょっちゅうだったから。  そういえば。そう言って私は無理やり話題を変えた。  スバルって、部活とかやってるの? 呼びなれない愛称で彼を呼んだ。  中学時代からギターをやっていて、去年まで軽音楽部にいたんだけど辞めちゃった。彼はそう言った。  正直に答えてくれない不安もあった中、彼は本当のことを答えてくれた。  私は少しの罪悪感を抑えて、どうして辞めたの? と返した。  ちょっといろいろあってね。  彼はその一言で終えると、ナツは何かやってなかったの? と呼びなれない愛称で私を呼び、話題を変えた。  それ以上、彼は話してはくれなかった。  彼を騙すような真似をした自分を後悔した。  事を急ぐ必要などまるでないのに。  そして、いつか私にこの話をスバル自身から話してくれたらいい。そうとだけ思った。    そんなメールのやり取りから幾日もしないころ、授業が始まるほんの少し前にスバルは私に言った。 「今日、放課後空いてる?」 「うん。暇だけど」  彼は少し暗い顔だった。  俯いてこちらには目を向けなかった。 「ちょっと一緒に来て欲しいところがあるんだけど」 「別にいいけど、どこ?」  私が聞いたとき、英語のネイティブの先生が大きな声で、ハローと言った。  それから彼の答えはないまま放課後になった。  私はまばらに人の残る教室に珍しく残った。  エリコに先に帰って欲しいこととその理由を言うと、エリコは不思議な笑みを浮かべて承諾してくれた。  きっと何か勘違いしているんだろう。いつか訂正しておこうと思う。 「ごめん」  スバルはそう一言だけ言うと黙って教室を出た。私は後を追った。  廊下に出ても彼は黙ったままで、私も黙って背中を追っていた。  普段、私が使わないような階段を上った。そして一番端の教室まで行くと彼は足を止めた。  小さな部屋だった。 「ここどこ?」  初めて私は声をかけた。 「部室なんだ。軽音楽の」  そういうと彼はポケットから鍵を取り出した。  簡単にドアを開けると私を中に招きいれ、また鍵をかけた。 「合鍵」  にいっと彼は笑った。 「作ったの?」 「部活やってるときに」  彼は視線を別のところへ移しながら答えた。  私はドキドキした。何か悪いことをしているような気がした。 「大丈夫。今日は部活ない日だから」  スバルは私の気持ちを察したのかそう言った。  そして続けて 「あった」  と言った。  彼は埃の被ったギターケースを持ち上げた。  私が質問するより前に彼は教えてくれた。 「ここに置いたまま部活辞めちゃってさ。ずっと取りに来たかったんだけど1人じゃ心細くて。ナツがいてくれてよかった」  彼の口から直接ナツと呼ばれたのは初めてだった。  私は何も言えずに、ギターケースを眺める彼を見つめていた。 「急に言われたんだ」 「え?」 「お前は必要ないって」  彼は椅子に腰掛けてギターを取り出した。  きっと部員だったころ、よく見かけた風景だったに違いない。  あ、座っていいよ。そう言って隣の空いている椅子をトントンと叩いた。  私は誘われるがままに腰をかける。 「先輩と繋がってたらしくてさ。俺を除いてみんな先輩のステージとかに出してもらってた」  弦を指で弾き、ギターの上方のネジをくるくると回す。  回してはまた弦を弾く。その繰り返しを彼は行っていた。  音を合わしていることは素人目にも分かった。 「俺は人付き合いとかあんま得意じゃないから、一緒にやってた奴しか知らなくて」  何も答えられなかった。 「気づいたら、次はどこのステージだとか何をやるだとか、俺の分からない話ばっかりだった」  言葉の一つ一つが自分に刺さるのが分かった。  スバルの気持ちが理解できる。  私も過去に経験していた。  周りに置いて行かれ一人ぼっちになった。それでも一緒にいたいと思った。信頼してたから。  それなのに。 「で、必要ないってさ」  彼は鼻で笑った。  私は泣きそうになるのを必死でこらえていた。  信頼してた人に裏切られる気持ちは知っている。だから、私は表面上の薄い付き合いばかりを選ぶようになった。  怖かったのだ。傷つくことを恐れた。  スバルは音あわせを終えたようで、握り方を変えながらおもちゃを扱うようにギターを触っていた。 「何か弾いてよ」  私が言う。 「何でもいい?」  頷くと、彼は何度か弦を撫で 「じゃあ、弾くよ」  と私の顔を見た。私がうん。と言うのを確認したあと、彼は大きく息を吸い込んだ。  描いた円はバラバラになって ただ残ったのは小さな点だ  取り残されてしまったことに 戸惑って泣き崩れて  それでも前に進むしかないと ぶつかる物に向かっていく  怖いけれど辛いけれど 小さな点は歩かなければ ぼくは歩かなければ  メロディも歌詞も始めて聴いた。  その詞から彼が作ったものであるとなんとなく分かった。  鼻がツーンと痛くなり、私はポロポロと泣いてしまった。  あまりにも強く、歩き出そうとするスバルの詞は逃げてばかりの私すら励まされて。  そう思っているうちに、彼もまた私と同じだったのではないかと思った。  また涙が溢れた。  苦しくて、怖くって、泣いてばかりで。  本当は1人では弱いのに。 「なんでナツが泣くんだよ」  歌い終えたスバルが声を震わせて言った。  そのうち鼻をすする音がした。 「もう泣かないって決めたのに」  独り言を呟いて、スバルも涙を零した。 「どうしていいか分からないんだ。どうしたらいいのか」  彼は言葉を続けた。 「俺はどうすればいい?」  どうもしなくていいよ。  そのままでいいよ。  私の近くにいてくれればいいよ。  1つも言葉にならずに私は声を出して泣いた。  ただ、私は彼の背中を抱いて。  彼も嗚咽を漏らした。 「歌って。ずっと歌ってて」  途切れ途切れになりながら、なんとかそれだけ口にして。  このとき心から思った。  彼の支えになりたい。  ほんの少しでもいいから守ってあげたい。  この人だけはこれ以上不幸なことが起きなければいい。  ずっと幸せなことだけ続けばいい。  そして、ただ歌って欲しい。  私ができることなら何でもするから、だから。  歌い続けて。  ずっとずっと。  泣きながらスバルを両腕に抱え、繰り返し繰り返しそれだけを思い、祈った。  散々泣いた後、私達は2人、手を繋いで帰った。  お互い何もしゃべらずに同じ駅まで歩き、同じ電車に乗り、同じ駅で降りた。  硬く握った手は離さずに。  この気持ちは。  恋なんていうほど、弱くも鮮やかでもない。  自分が相手の生きる力になれればいいと心から願う、ただそれだけだった。 すごく思い入れがあります。 最後しか頭になかったのにスラスラ書けたのに、題名や背景を決めるのにすごく時間がかかりました。
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