飛行
あいつはひどい夢想家だった。
くだらないことしか考えていない。
小さいころのおもちゃ箱がそのまま頭の中に詰まってるんじゃないかと思う程で。
本当にくだらないことをいつまでもいつまでも考えている、そんな奴だった。
「なぁ、空飛んでみたくない?」
こいつが口を開けば、とんでもないことを突然発する。
「無理に決まってんでしょ。空を飛べんのは鳥と雲だけ」
「そうかなぁ」
「そう」
たまにイライラさせられる口調でこいつは言う。
「だってさ、おかしいと思わない? 地上を早く走れる自動車や バイクがあるのに空を飛ぶ乗り物がないっていうのは」
「おかしいのはあんたの頭だよ。この世には重力ってもんがあんの。すべてのものは地面に落ちるようになってんだから」
「できそうな気がすんだけどなぁ」
「無理無理。諦めなさい」
そっかぁ、と奴は小さくため息をつく。
またぼーっとしている。そうやっているとき、大抵こいつは夢を見ている。
「でもさ、本当に出来たらすごいと思わない?」
ほらね。
奴はいろんなものに興味を示したが、中でも乗り物が幼いころから好きだった。
自転車、自動車、船や電車。
どれも好きらしいのだが、中でもバイクが一番好きらしい。
奴の足代わりでどこに行くにも自分の愛車を乗り回していた。
それどころかどこに行く予定も無いのにひたすらバイクに跨っているときもある。
その間は奴の至福のときなんだそうだ。誰にも邪魔されずに夢が見れるから。
「良いこと考えちゃった。バイクで空飛べないかな?」
「まだそんなくだらないこと言ってんの?」
呆れている私の気持ちもしらないで奴はニコニコと語る。
「だってさ、あの速さで空飛べたら気持ち良いと思わない?」
そういって空を見上げる。
誰にも見えない夢の乗り物が奴の目には見えるのだ。
そこには奴が乗っててそれはそれは楽しそうに空を走っている。
「そりゃ、気持ち良いんじゃないの」
適当に返事をする私を他所に、奴は笑顔でまだ空を見上げていた。
「やっぱそう思う?」
一人でよし、と呟いて奴にしては珍しく私の前を歩いた。
早足で家へと向かっていく。
「え、何? どうしたの?」
後ろから追いかける私に奴は顔だけ向けた。
「良いことを思いついたんだ」
それから数日の間、私は奴の姿を見ることは無かった。
久しぶりに会ったとき、私を見つけた奴は嬉しそうに駆け寄ってきた。
「いいものを見つけたんだ」
そういって差し出したのは古い絵本だった。
題名も作者も見覚えがない。
奴はそれをゆっくり開いて、あるページを私に見せた。
「これが何?」
「これだよ、これ」
奴が指差したのは空に浮かぶボート。
一艘のボートには主人公であろう少年が乗っていてオールを漕いでいる。
「で?」
奴はじれったそうにあーもう、と言うと絵本を私から取り上げた。
「空を飛ぶ方法だよ」
「バカ」
「ばかじゃないって。この方法を使えばきっと空を飛べるんだ」
その絵本に書かれていることはすべて作り話だなんて5歳児だってきっと分かるだろうに。
「それは作り話でしょ。実際にできるわけないの」
「できるんだって」
奴は話の通じない私をその場に残して、やっぱり早足でその場を去った。
きっと家に戻ったに違いない。
そしてくだらないことを考えながら空を見上げているんだろう。きっと。
奴の噂を耳にしたのはそれからだいぶ経ってからのことだった。
噂を聞いてから気が付いたのだが、あれ以来奴と会っていなかった。
噂はといえばいつもと同じ。どっかの大人が流した悪口が噂になってる。
奴は頭がおかしいだとか、夢ばかり見ている阿呆だとか。
頭のおかしいあいつは今度は空を飛ぼうと考えている、だって。
人が空を飛べないという事実を誰もが認めている。
それを納得できない人間はきっと奴だけだろう。
そんなことを考えて奴の家に足を運ぶと、聊か穏やかではない声がした。
奴とお母さんの声。
話している内容までは分からないけれど、想像は容易くつく。
今日は帰ろうかと玄関で迷っている間に奴は家から出てきた。
「おう」
少し気まずく感じた私が片手を上げると奴も同じ動きをした。
「おう」
私は奴のガレージに連れて行かれた。というよりついて行くといった方が正しいか。
とにかく、奴の愛車をはじめて目の前にした。
「みんなに言われるんだ」
「バカって?」
私の言葉が図星だったらしく、奴は黙り込んだ。
愛車を眺めハンドルを撫でた。
「夢ばっか見てるって言われてるんでしょ?」
奴は黙ったままだった。
「それはしょうがないじゃん。本当のことなんだから」
「でも、飛べるんだよ。こいつは」
バイクにだけ目を向けている。
黒いボディのそれは悲しそうな奴の顔を反射させていた。
「分かったんだ。飛べる方法が」
また黙り込む。
奴はバイクに触れたまま固まってしまった。
その態度に苛つかされたけど、奴があまりに悲しそうな顔をするもんだから何も言えなくなった。
スニーカーと地面とが擦れて立てた音はガレージ内に響く。
「親に、働けって言われたんだ」
「働けばいいじゃん。学校なんて行きたくないんでしょ」
うん、と小さい声で肯いた。
「でもさ」
奴は地面に座りこんだ。
私は壁に寄りかかった。ひんやりとしていた。
「ここから離れた工場で住み込みで働けなんて言うからさ」
「無理だね」
「そう思う?」
「うん」
「やっぱり。お前ならそう言うと思った」
奴は地面に落ちていたスパナで手遊びしている。
「無理だとは分かってるんだけどさ」
スパナから目を離さないままだった。
「うん」
私も自分の靴に目をやった。
そのままずるずると地面に吸い寄せられるように私は座り込んだ。
「出来るならこのままずっとこうやっていたいんだ。ずっと夢みたいな話を口にしてさ」
言葉が見つからなかった。
夢の好きな奴が自分の夢を諦めようとしてるのに対して、私の持っている言葉は軽すぎた。
ガレージはまた静かになった。
私は靴に目を落としたままだったし、奴もスパナに目を向けたままだろう。
パチンと手のひらにスパナを当てる音だけが定期的に聞こえる。
どれぐらい経ったかは分からない。そのうち、スパナが地面を滑る音がして私は顔を上げた。
奴はヘルメットを手にしていた。
「乗らないか?」
私は手を伸ばした。
「乗る」
奴は笑みを浮かべて私にヘルメットを手渡した。
それを被って奴の後ろ、バイクを跨ぐ。
奴はエンジンをかけた。
「大丈夫? コレ」
「捕まってりゃ落ちないよ」
奴の胴に手を回した。
「それでよし」
と奴は目で笑って見せた。
バイクは思った以上に大きな音で走り出した。
私は走っている間、奴にしがみついたままだった。
気持ち良いとかそういうのを感じる前に恐怖を覚えていたのだ。
自分が見ていた時よりも何倍も速い気がする。
それ以外は、後から振り返っても覚えていなかった。
ただ、一つだけ言った。
「これなら飛べそう」
奴は聞こえていないのか、何も言わなかった。
それから奴は直接私の家にバイクを走らせ、私を降ろした。
じゃあ、と片手を上げると奴は笑った。
家に帰って部屋にいても奴のことが気がかりだった。
私に何が言えるのか、私に何ができるのか。
それは分からない。ただずっと奴の言葉を思い出しているだけだ。
窓から見える小さな空の向こうから黒い雲が現れて、数時間後には雨が降った。
飽きることなく雨は降り続いた。
なんとなく暗い気分をさらに憂鬱にさせる。
雨音と時々聞こえるエンジン音だけが頭の中に入ってくる。
また大きなエンジン音がして、私は窓際に立った。
見下ろした私は、奴の姿を見つけた。
奴はバイクで走っている。雨のなかずぶ濡れになって。
顔は見えないけれど奴は笑っているだろう。
誰も考えないような夢を見ながら。
走り続けているんだろう。
奴は窓からは見えない場所へ走り去っていった。
それから奴と会ったのは、奴の学生生活最後の日だった。
それまで顔を出さなかった奴は私の顔を見ると走り寄って来た。
「辞めるの?」
私が聞くと奴は笑顔を少し曇らせて
「あぁ、うん」
と答えた。
それから察するに、私に報告したいのはそんなことではないらしい。
「今日さ」
奴は笑顔を取り戻した。
「空飛ぼうと思ってるんだ」
もう驚きも呆れもしなかった。
奴はいつどこでどんなことをするのかを私に告げた。
言い終えると一瞬不安そうな顔を浮かべた。
私が何も言わないことに驚いているのだろうか。
「来てくれるよな?」
「もちろん」
そう答えて別れた。
私はいつもより足早に家路につき、約束の時間を待った。
言われた時間に言われた場所に行くと、少数だが人が集まっていた。
人ごみの中に入っていくとこそこそと聞こえるのは奴を悪く言う言葉。
「今度は空を飛ぶって言い出した」
「学校も辞めてそんなことばかりやって」
「一度失敗しないとああいう奴は分からないんだよ」
私はそんなことをいう人間の間を掻き分けて、人ごみの先頭に立った。
奴は自慢のバイクを磨いていた。
よく見ると、そのバイクには何か手が加えてある。
機械に詳しくない私が見たのではよく分からないが、バイクの両脇に少し重そうな機械が付いているのだけ分かった。
奴は私の姿を確認すると自慢げに笑った。
「見てろよ、絶対飛べるから」
「はいはい」
「信じてないな?」
「信じてるよ」
じゃあ、さっそくやってみるといって奴はバイクを連れてどこかに消えた。
皆が奴は逃げたのだと言い出したとき、大きなエンジン音がした。
首をぐるぐると回し、あたりを見回すと奴の姿は目の前にある、大きなビルの上にあった。
ちょうど私と向き合った形でバイクに乗っている。
バイクは唸り声を上げ走り出した。
まっすぐ、まっすぐ、まっすぐ。
キャアと背後から声がした。
皆が目を瞑った。
奴はビルからバイクごと飛び降りた。
私は見た。人が空を飛ぶ瞬間を。
ビルの屋上から勢いよく飛び出したバイクはまっすぐに、まっすぐにこちらへ向かって私の頭のはるか上を越えて行った。
奴は私を見下ろして右腕を上げ、拳をぐっと握った。
ヘルメットの中の目は笑っていた。
誰も何も言わずに、頭上をスピードを上げて飛び越えていく機械に目を向けたままだった。
口をあけてぼんやりと眺める。
「やった」
奴の黒光りするバイクが背後にまわって振り返ったとき、私はやっと口を開くことができた。
それから、誰かが叫んだ。
飛んだぞ。と。
皆が手を取り合った。抱き合った。あのバイクに手を振った。
キャアとまた声が上がった。
何が起きたのか分からない。
安定した動きを見せていたバイクが一瞬グラついた。
まっすぐに走るバイクが伝線に前輪をひっかけたとたん、奴の体はバイクの前方に放り出された。
くるりと奴の体は宙で前転して地面に叩きつけられた。
それからほんの少し間を空けてバイクが大きな音を立てて地面に落ちた。
私は走った。
一瞬竦んだ足を無理やり動かして。
後ろから大人が付いてくる。
誰かが救急車と何度も叫んだ。
数メートル近づいたら、それ以上足が動かなくなってしまった。
後からきた大人が奴の周りを囲んだ。
そのあとすぐに救急車が来て、奴を乗せて去った。
あいつは初めからこうなることがわかっていたのかもしれない。
手を合わせながら私はそんなことばかり考えた。
奴の愛車はどこかへ持って行かれ、家族も引越してしまうと、あいつが生きていた証拠はみな消えてしまった。
それから2年が経つと、私たちの頭上のはるか遠くを飛ぶ乗り物ができた。
あと数年大人しくしていれば、奴も乗れたのにと人は言う。
奴は、新井飛行は、エンジン音を響かせて夢を見ながら走り去った。
微妙にファンタジー